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会津の風景(1)

2019年12月14日の福島市から見た吾妻連峰です。雪をかぶる山は

 

一切経山です。手前の河原は摺上川と申しまする。

 

私の小さな時はこのように家は建っていませんでした。橋も木造でその上

 

には砂利が敷いてありました。なんとその上に電車のレールがあったんで

 

す。俗に言うチンチン電車です。

 

洪水で橋が流されると、電車のレールだけが無様に垂れさがって残ります。

 

水が引くと、橋をまた工事します。木組みをするだけですから簡単です。

 

電車の乗客はその間バスが代替え輸送します。

 

以上、今日の記事とはなんの関係ありません。今日は会津の記事を書きます。

 

 

只見町史の巻頭グラビアにあるカラー写真です。

ブナの道ならいささか覚えがある。気持ちが落ち着き、いつまで見ていても飽きない。

日付の入ったものは私の写真です。

 

 

南会津郡只見町の只見町史にある八十里越えの画像である。

 

ブナ林の中に広々とした歴史の道がある。私はまだ行ってい

 

ない。行っておけばよかったという悔恨がある。

 

チャンスはたびたびあった。だいたい入り叶津の浅草岳への

 

道と八十里の道は途中まで一緒である。

 

この道の途中に、小さな石の墓標を見たことがある。長岡藩

 

士の墓標だ

長岡藩家老河井継之助は負傷してこの道を担架で担がれて越

 

てきた。

 

「八十里腰ぬけ武士の越す峠」

 

只見町の塩沢というところで河井継之助は死んだ。

 

死ぬ時、従者の松蔵に火を焚かせ終日見つめていた。

 

やがて、松蔵、棺桶を作ってくりゃれと命じた。松蔵が泣い

 

て断ると叱りつけて命じた。

 

やがて昏睡におちいり、只見町塩沢が終焉の地になった。

 

現在、そこに河井継之助記念館が立っている。

 

松蔵から直接話を聞いた人がいて、その人は昭和25年まで

 

健在で、のちに「武士の娘」という本を残した。

 

杉本鉞子(えつこ)という人である。長岡藩筆頭家老の娘であ

 

った。

 

そのころは歴史の道などはあまり興味がなくて、いわゆるピ

 

ークハンーで高いところばっかり狙ってあるいていた。

 

精神病院の患者は逃げるとよく送電線の鉄塔に上がって困ら

 

せられたが、あれと同じである。

 

たしかに浅草岳はいい山で6月の中旬頃は、稜線にはムラサ

 

キヤシオツツジが満開で、頂上には20センチくらいの丈の

 

ヒメサユリがじうたんを敷くようにびっしりと咲いていた。

 

あんなヒメサユリ見たとがない。

 

しかし、下山途中、ひざが激しく痛み出し、はなはだしい痛

 

みで歩行もおぼつかなくなってしまった。ねんざしたり、う

 

ち身をした覚えがない。突然起きたんである。

 

足を引きづるようにしてあるいてようやく降りて、福島に帰

 

った痛い思い出がある。

 

医者に行ったら腱しょう炎だなどといわれて注射1本で治っ

 

た。山の中ではなにがあるかわからない。

 

山に対する情熱、孤独を克服する信念、高みを目指す精神も
時と場合によりけりで人間何があるかわからない。
危うく腱しょう炎で遭難するところだった。会津の山奥のだ
れにも知られないところで腱しょう炎で死ぬわけにも行かな
い。一人歩きのつらいところではある。
“鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ”
 
万葉集 「柿の本人麻呂の辞世といわれている歌。島根県に出張中、O157にかか
り石を枕にして最期を迎えたときに歌ったという。」

 

 

...

人麻呂になるわけにはいかないのだ。
え!膝の痛みの原因ですか。それは裸足で渓流釣りをしてた
らです。
冷たい沢水の中に膝まで立ちこんでいたからです。
以来、夏でも長くつを履くようにしたら痛むことはなくなり
した。渓流釣りをする方はご用心。
掲載の八十里越えの画像を毎日見ている。
越後の人たちの情報によると、この八十里越えの旧道は鋭
工事行中で近々開通するような話がある。
開通すれば一番乗りしたい。ただ、本来の八十里越えとは
1キロらい外れるようである。

 

叶津にはこういう家があって長谷部家住宅といわれている。長谷部家は代々叶津の名主で

 

八十里越え口留番所の役人の家柄である。もともとは会津山ノ内家の家臣で、会津山ノ内

 

家は只見町や大沼郡を支配していた。今回の会津の風景は鎌倉期から幕末に至るまでの

 

800年間にわたる会津山ノ内家について考えるものである。

 

会津から越後には4つの関所があり、赤谷口、石間口、叶津口

 

(八十里越え)、田子倉口(六十里越え)があって、今回説明

 

するのは叶津口(かのうづくち)田子倉口です。

只見町史をコピーしました。

 

え~と分かりにくい地図です。東蒲原郡は沼垂から酒屋を通り阿賀川の中流域から

 

八十里峠までです。

 

魚沼郡はもっと分かりにくく、小千谷から群馬県境までと、小千谷から六十里越えあ

 

たりまでです。小千谷、小出、六日町などは会津藩領でした。正確には幕領のうち会津藩の

 

預かり地ということです。幕末には会津藩領になりました。

 

八十里越えのある新津、村松、森町、長岡は会津藩領ではありません。

 

以上のことはだれも教えてくれませんでした。自分でひとりで勉強したんです。

 

周りに知ってる人がいなかったからです。

 

ほとんど会津の人たちは知ってることでしょう。200Kmも離れた福島市では知っ

 

てる人はだれもいないんです。