会津の風景(2)

 

 

会津地方というのは地図を見ると分かるが、広大で会津地方の特徴などと一口

 

は言えない。

 

猪苗代を含む裏磐梯などの耶麻郡、喜多方を含む若松周辺、西会津地方、さら

 

には田島などの南会津町、そして今回の只見町周辺を含むいわゆる伊北地方

 

(いほう地方)並びに金山谷(かねやまたに)である。金山谷は大沼郡といわれている。

 

つまり今回はこの金山谷と只見町の物語である。

 

私の母親はこの金山谷といわれる、三島町の桧原というところである。

 

昔から南山(みなみやま)お蔵入り領といわれて、この大沼郡と南会津郡は幕領

 

で、幕府の支配下にありました。保科正之以来南山お蔵入り領はたびたび会津

 

藩の預かり地となって、会津藩が支配していましたが、基本的には幕領でし

 

た。ここから米を運び出し江戸に送っていたんです。

 

支配の形態は会津藩と幕府ですから複雑で、支配が代わるたびに問題が起こり

 

ました。

 

代官が支配していましたが、幕府も会津藩の代官は私腹を肥やしたり、越後屋

 

などと結託して不正を働いたものは200年間ひとりも出なかったと思いま

 

す。記録にありません。年貢などの苛斂誅求などは別ですよ。あれは代官の責

 

任ではありません。

 

幕領でも会津藩でもおよそ代官になる人は清廉で潔白な人物ばかりで、みな歴

 

史に残るような灌漑、土木、開削事業などをさかんに行っています。

 

そういう能力のある人しか代官になれなかったんです。

 

幕府では勘定奉行の支配下で人物が精査され、適任者でなければ代官になれま

 

せんでした。幕府の支配地はみなどこでもそうですよ。

 

会津藩でも代官人事はご家老の専権事項で家老の推薦がなければ代官にはなれ

 

ませんでした。

 

テレビドラマの越後屋と結託して私利を図るものなどは本当に珍しく、江戸時

 

代を通して少なかったと思います。

 

ドラマの水戸黄門が代官のイメージを傷つけたんです。

 

滅多にいなかったと言いましたが、なぜでしょう。

 

それは切腹があったからです。私利私欲で法をないがしろにしたものは切腹は

 

確実だったからです。今の国会議員や大臣や官僚で切腹にならないものはあり

 

ません。みな汚職をしてるからです。

 

汚職をしてもみな5年くらいで出てきます。党がらみの大掛かりな贈収賄はみ

 

な適法になっています。だから上も下も汚職を行って平然としているわけで

 

す。根本は個人献金、企業献金にあります。おかねをもらっていいようにされ

 

てんですよ。

 

昔の武士はすべて切腹です。世の中にいかに強欲でも死んでもいいから、金儲

 

けをしてみたいなどという人はいませんから、すくなくとも経済的に私利私欲

 

を図った犯罪は武士社会では少なかったわけです。そんなこと当たり前です。

 

これはどの藩でもそうで、下からつまり百姓などから役人が不正をしたなどと

 

追求があったら、幕府や藩上層部は徹底的に調査をして事の顛末を明らかにし

 

て、責任をとらされます。何も関係していないのに上司は立場上責任をとらさ

 

れて、切腹させられたことはたびたびあります。うっかり目をつぶるわけには

 

いかないんです。またえん罪もよくありました。冤罪の誣告(ぶこく)をしたも

 

のは極刑にされます。誣告=罪のないものを訴えること誣告罪。

 

人を支配することは幕府や藩政上の根本で、これが崩されると幕藩体制が成り

 

立っていかなくなるからです。

 

それは武士社会が否定されることです。封建社会の一番肝心なところです。

 

ここに不正があったり、えこひいきをしたり、情実が絡んだりすると、この支

 

配体制にひびができるからです。

 

これは徳川家康以来の基本方針で幕府の中枢です。これに反するものはどしど

 

しとりつぶされました。人を支配するには資格が必要だったというわけです。

 

現代のような首相が率先して不正をしたり、ごまかしたり、大臣がでたらめを

 

したり議員が不正をしたりして、上から下までデタラメのし放題は自民党の

 

党の持つ病気で、これは治りません。民主党に政権を奪還されて、3年野にあ

 

りましたが、それがよくなったかというと、さにあらず、ますますひどくなっ

 

てきています。自民党議員は支持者を抱き込んで私腹を肥やしながら、選挙民

 

や国民をだまくらかそうしています。腐臭ぷんぷんです。

 

ぜったい治らないと言ったのは国民がそういう国民ばかりだからです。あまり

 

まともな人は少ないと思いますよ。

 

自民党の支持者はまあ40%の人くらいですが、それぞれが自民党に対して何

 

らかのおこぼれを期待しているわけです。たとえば葬式に弔電をもらうとかで

 

す。爺さまが死んだときに弔電をもらったといって、おしっこ漏らすほど感激

 

するんです。それだけで近所の百姓仲間内では顔が立つわけです。(ステータ

 

スというわけです。)

 

ああ、これは会津の歴史を語るコーナーで自民党と百姓と一部上場企業の現状

 

維持者たちの腐れ切った政治を語るコーナーではありません。

 

さて代官のイメージチェンジを図ったところで、この南会津地方を説明しま

 

す。

 

今「奥会津」などという表現がはやっていますが、会津の南会津や金山谷、只

 

見地方が本当に人跡未踏で、地球の果てのようなところだったかというと実際

 

は疑問があります

 

それは若松などの中心地から見ての奥会津という表現で、奥だか表だかなどと

 

言ってる人は少ない。実際若松などの中心地の発展はいわゆる奥会津と呼ばれ

 

てきたところよりもはるかに遅れてから、人が住みつき、農耕がおこなわれ

 

た。なぜかというと水がなかったからです。

 

南会津地方の沢筋谷々には水がふんだんにあるところから水田耕作が早くから

 

発展してきました。収量はとにかく、容易に収穫できることが人の住むぜった

 

い条件だったわけです。言ってることが理解してもらえますかね。

 

大河のある現在の都市部よりも南会津の川筋の方が早くから発展してきたわ

 

けで、数千年前にはこちらの方が表会津だったわけです。

 

大河も利用価値はあります。ナイルの氾濫のように周期的に氾濫すると山の養

 

分が地を潤して土地が活性化します。日本のような水田耕作は精緻な水路が問

 

題でやたらに氾濫されては、収穫ができなくなってしまいます。だから大河か

 

らの灌漑も良しあしで、それよりも沢筋の方が安全で合理的だったわけです。

 

それはあくまで数千年前に価値観ですよ。

 

いちいちひとのいうことを批判して、何言ってんだかなどという段階ではない

 

んです。なにしろ縄文の心が分からない人は理解することもできないはずで

 

す。そういう人はこのブログから出ていったほうがいい。時間の無駄だからで

 

す。トラクターがあっぺしたなどという話ではないんです。

 

そういう長い歴史をはしょっていきなり鎌倉時代に入ります。

 

芭蕉がおくのほそ道に出かけたのは「西行の500年忌」がきっかけです。

 

日本人は不思議な国民で500年も前に亡くなった人まで分かるんです。

 

要するに記録があるからです。

 

西行がなくなって現在は830年経っています。

 

西行は鎌倉時代の人です。頼朝と同時代人です。(1118~1190)

 

鎌倉時代のこの大沼地方、只見町はどうなっていたのかというと、頼朝幕府の

 

御家人の山ノ内家が支配していました。平泉藤原氏との戦いを制したからで

 

す。それでこの土地の地頭に任じられました。金山谷(大沼郡)只見町、その

 

ほか、越後の魚沼郡が与えられました。小出町や小千谷などのあるところで

 

す。小出町などは六十里越えなどを越してゆくと意外と近かったわけです。

 

さらには八十里越えもあり、越後との人や物資の交流は昔からあったわけで

 

す。六十里越えると小出町、八十里越えると三条市があって、塩や海産物など

 

が到来し、会津の特産物などが送られました。

 

会津の特産物はトリモチです。馬も送られたという記録もあります。トリモチはヤマグルマという植物からつくられて、船などの修理に使われた。べたべたして鳥などの捕獲にも使われる。

 

長いって言われるからこの辺でやめます。

 

 

 南会津町前沢集落かやぶき屋根住宅

 

 

南会津町 前沢集落というところのかやぶき屋根の家です。集落のほとんどが

 

かやぶき屋根で大正時代に全村が建て替えられました。明治時代に火災にあっ

 

たんです。現代を先取りしたようなモチーフで斬新である。たぶん夏は涼しく

 

冬は暖かだろう。手入れは大変だろうが、住み心地を優先する思想は大事であ

 

る。見る人を落ち着かせることは、住んでいる人たちも落ち着いた生活なんだ

 

うなあと思っている。感想を聞いたことはない。

 

ただ、食事中にずかずか入っていってカメラを向けるという非常識な人もいる

 

らしい。みなさんはどうかやめてください。

 

https://ameblo.jp/a1927115115-02/entry-12547099909.html?frm=theme

 

 

上記長谷部家住宅は叶津村の名主邸で八十里越え地区の関所の責任者です。

 

代々山ノ内氏の家臣でしたが山ノ内氏の滅亡にともない土着しました。

 

会津藩時代はこの関所を預かり幕末に至っています。

 

前沢集落は現代に生きる長谷部家住宅としてご案内しました。

 

 

 

今年の1月にふき替えした福島民家園 馬場家 
 
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