福島の青い空 越後と会津

福島の青い空

 

 

 

越後と会津

 

 

 

娘ざかりをなじょして暮らす ♪♪

 

雪に埋もれて小半年 ♪♪

 ~

テモサッテモソジャナイカア~♪♪

 

昔は山で死んだ人を荼毘にふすときこの唄を歌った。「十日町小唄」。

 

越後の冬は雪がふかく、雪が音立てて降ってくるのだそうだ。

 

小学校の同級生がホームセンターをやっていた。冬にも三条市に仕入れに行く。

 

「裕ちゃん、新潟の雪は音立てて降ってくるんだぞ」と言っていた。私は国では裕ち

 

ゃんと呼ばれてたんである。石原裕ちゃんと同じです。

 

二人して雪山はスキーして駆け回ってきたから、雪の降り方は知っている。

 

しんしんと降って深々と積もるのである。静寂の中で深々と積もる。

 

しじまっていう言葉の意味が分かりますか。色魔じゃないですよ、しじま。

 

しじま=物音ひとつせず静まり返っていること。

 

冬山は音がありません。風の音だけです。時々枝から落ちる雪の音がドサドサといっ

 

て聞こえる。そいう静かな人の気配がない世界をしじまといいます。死の世界です。

 

冬の登山者は死の世界を歩む人のことです。生きながら黄泉の世界を感じたい人は雪

 

山に行けばいい。

 

「冬の星座」のなかにもしじまって言葉が出てきます。

 

堀内敬三訳詞・ヘイス作曲/文部省唱歌(中学一年).

 

昼でも夜でも音がないんです。そういうところに究極の美があるんです。人はそうい

 

う究極の美にいざなわれて死の世界に入り、やがて帰らなくなります。

 

あぶない世界なんです。

 

死の世界の魅力は、口ではいい表せない。古来その魅力に取りつかれ、幾度も敗退を

 

繰り返しながらも、なお未だに挑戦者が絶えないのは、一度死の世界を見たものはそ

 

の魅力から逃れられないからである。静謐の世界。あの世の世界。究極の美の世界。

 

 そういう雪かというと、そういうものでないと友が言う。

 

「ドサドサだというのである」一晩に2mも積もるのだそうだ。

 

見当もつかなかった。冬の磐越西線で越後に向かう友が、車窓から心細そうにドサド

 

サと積もってゆく雪を見ている。その姿が今でも目に浮かぶ。ほとんど雪のトンネル

 

だろう。「ホワイトアウト」

 

それが今年の越後は雪がさっぱり降らなかったという。いや友ではない。友はもう

 

18年も前にこの世を去った。私は越後のブロ友が何人もいる。すべて山好きの人

 

だ。

 

そのブロ友の便りが雪が降らないというのだ。ほとんど記憶にない異常気象だとい

 

う。

 

山岡荘八は越後小出町の出身である。

 

呼び捨てると小出の人たちがおこります。まだまだ山岡荘八の肉声、講演会の模様を

 

ありありと覚えている人が多く、郷土の偉人としてやっぱり山岡荘八先生なんであ

 

る。でも、福島の私まで山岡先生などと呼ぶわけにはいかない。木下藤吉郎先生など

 

と呼ぶのと同じだからだ。

 

ただ長州では吉田松陰などど呼び捨てにする人はいない。今でもみな松陰先生であ

 

る。司馬さんがそう言っていた。

 

わたしは吉田松陰先生などとは呼んだことがない。しかし、松陰神社にある「留魂

 

録」は福島藩士が18年の歳月をかけて届けたものであることは知っている。松陰か

 

ら預かったものだ。「留魂録」は二部あって、一部は長州の人たちが回して読んでい

 

るうちに無くなってしまった。

 

今存在している「留魂録」は福島藩士が届けたものである。

 

俳優の渡辺謙さんも小出町であるが今回はコメントしない。

 

山岡先生の自伝を読むとやたらに織物関係の話が出てくるのである。機織り工場、機

 

織り娘などの話がひっきりなしに出てくる。山岡先生の姉が機織り娘になって家計を

 

助けていてくれたからである。山岡先生の本姓は山之内氏である。鎌倉時代の御家人

 

で、会津にあって400年間も蟠踞した。山岡先生はおそらくその直系の末裔と思わ

 

れる。

 

魚沼市と南魚沼市は織物が有名である。絹織物、からむし織など様々な製品を作り出

 

してきた。カラムシとは麻の一種で青苧あおそと呼ばれる植物から作られる。十日町小

 

唄にある明石ちぢみ、小千谷ちぢみ、その他さまざまな紬織つむぎおりが有名である。

 

高級反物として昔からありました。

 

福島県大沼郡昭和村にもからむし織がある。昔からカラムシの原料は会津から輸出し

 

ていた。輸出していたといっても、もともと越後の織物産地は会津藩領だったんで

 

す。会津藩は小千谷と小出に陣屋(代官所)を設けていた。

 

 会津藩の藩領は広く幕末期のころは新潟市の近くまで会津藩領でした。この北蒲原郡

 

魚沼郡などはそれでなくとも広く、戊辰戦争では防衛に苦慮した。会津藩はひとの領

 

地まで行って戦争していたわけではない。自分の領地まで攻め込まれたんで、やむな

 

く戦ったんである。

 

越後の人たちのブログを見るとき、かっての産業のことや人々の生活のことがしのば

 

れます。会津と越後はそういう深いつながりがあります。

  

会津と越後は八十里越峠、六十里越峠越を往還して昔から永いつながりがありまし

 

た。

 

 

 ブナ林の続く八十里峠越えの道

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    madonna (日曜日, 15 3月 2020 14:48)

    裕ちゃんでしたか、なんかイメージと違うなあ。
    私も高校を卒業するまで福井にいたので、雪のことはよく知っています。
    越後ほどには降らなかったでしょうが、福井を去る前の年は大雪でした。
    シンシンと言う言葉が思い浮かびます。
    福井も今は殆ど降らないようですが。

  • #2

    a87426 (日曜日, 15 3月 2020 18:04)

    madonnaさんこんにちは

    私は越後の雪を知りません。福島は表と裏の中間なんです。だから冬型の影響を受けるときもありますが、ほとんど東京の天気並みです。でも時々ドカ雪が降ってびっくりします。
    吾妻山は裏日本なんです。だから人の行かない死の世界の美しさを知っています。吹雪にまかれたり、雪崩にあったりしてずいぶんひどい目にあいましたが、やはり雪山が一番美しいですね。
    もう行けなくなったんでこんなことを書きました。思い出は尽きません。
    読んでいただき感謝です。裕ちゃんと呼んでください。