逢うすべのなく隔つ友花は葉に
アメブロは嫌いです。
KDDIのブログにアップしてますが、メジャーでないので読んでくれ
る人が少ない。
しょうがないのでアメブロにアップします。
アメブロは芸能記事が多いんで余計な気遣いをしてしまいます。
私は芸能方面は興味がありません。テレビもほとんど見ませんし、
歌もカラオケも嫌いです。
私は小学生のころ流行歌などを歌っていると母親から叱られました。信じがたいことですが本当です。
明治生まれは、家庭で流行歌などは歌わせなかったんです。
春日八郎や三橋美智也などはダメでした。
そういう時代だったんだなどと言っても理解できない人は理解できません。
テレビは昭和30年代の後半、東京オリンピックのころからようやく普及し始めました。昭和30年代=1960年ころ
だから、テレビもカラオケもその他音響機器などなくても本来なにも困りません。そのうえ電化製品など何一つなくても困りません。
登山では文明の生活はなにも通用しないんです。
え! 携帯は山岳地帯はほとんど通信途絶ですよ。
ありゃ通じるのはアンテナのある限られた地域だけです。
山岳地帯で努力してるのドコモだけです。auは中途半端、ソフトバンクは街場だけです。知らなかったですか。
携帯を無線の代わりなどと思ってはいけません。
芸能人のブログや芸能人の記事を多くアップするということは、裏に何かあるのではないかと疑うのが普通です。
そういう習慣のない人が、政府や自民党などから結局馬鹿にされるわけです。
オリンピックだなどといわれるとすっかり信じ、今日も明日もオリンピックになってしまいます。
オリンピックなどと騒がなけれれば、本腰を入れてコロナに立ち向へたんです。オリンピックなどのために初動が遅れました。
オリンピックでコロナが勢い付き、とんでもない事態になってしまいました。
オリンピックを誘致して国民をだまし、景気を盛り上げようとすることは政治の常とう手段です。1940年の東京オリンピックもオリンピックが政治の手段として使われて、結局幻になってしまいました。
オリンピックはもともとうさんくさく、政治的な意図がありありで国民をだます手段です。
原発事故を過去のこととして忘れさせようとしていたんです。
オリンピックが消えて再び原発事故が浮上してきました。因果なもんです。
これからもオリンピックは「スポーツの祭典」など言われてだまされてはいけません。久米宏さんや「ほんまでっか」の池田教授などはオリンピックには最初から反対していました。
去年の8月以来このアメブロの正体を知ろうとして、観察していました。
このブログは政府(世耕)に操られているような気がしてしょうがありません。
アメブロは政府のエージェントだという見方をするとすべてが納得して見えてくるのです。
スポーツや芸能ネタで国民に何も知らせずコントロールして、毎日何も考えないでアヘアへで暮らさせる。
たぶんこの記事もアップするとペケになります。だから、しょうがなくてKDDIのブログになるんです。
オリンピック狂騒曲もようやく納まって、人々も地に足がついた日常が戻ってきました。
当ブログもようやく日常に戻って、オリンピックや政治にかき乱されることもなく、静かな日々が送られることは何よりもうれしいことです。
安倍政権の言ってきたことはすべて嘘で、化けの皮がはがれてしまいました。
「巧言令色少なし仁」と言って、昔の人は安倍晋三のような人を評しました。へらへらと口から先から生まれたような人を評してそういったんです。
現代精神科学では、安倍のような精神症状をサイコパスというそうである。
そういう結論に至ると我々の屈託も楽になり、要するにバカは相手にしないということになります。
バカと思えば腹も立たないし、病人に腹を立ててもしょうがありません。
さて、大島蓼太の句である。
“逢うすべのなく隔つ友花は葉に”
隔つ=へだつ
この句はヤフーブログ時代に九州は佐賀の和紙屋紫蘭さんのブロ
グで教わった。すぐに覚えた。紫蘭さんは御年96歳にあいなるブロガーです。
http://waipiro20.rssing.com/chan-11298892/all_p1.html#item5
最後のほうに出ています。
「紫蘭の部屋」はアメブロにあります。
未だかくしゃくでブログを更新しています。
俺も96歳くらいまでブログをやれたら満足だな。
大島蓼太は信州の人で江戸中期に活躍した俳人。蕪村と同じころの人です。(1718年~1787年)
18歳のころ文学の手ほどきをしてくれた先輩が、
むっとして戻れば庭に柳かな 大島蓼太
という句を習った。
その時はアハハで終わったが、ちゃんと覚えていた。18歳のころ覚えた句は忘れない。
ネットで検索すると仮名遣いなどに違いがある。どちらが正しいのかわからない。教えられたとおり書いている。
登山の途中の景色を見てのその道すがらや山小屋での憩いの時間にそう言う句を教えてもらったんである。そういう歌や句はいっぱいある。
信濃路はいつ春にならん夕づく日
入りてしまらく黄なる空の色 島木赤彦
こういう歌も教わった。場所は飯豊山の切合小屋の前の稜線である。切合わせ小屋。
大日岳に陽が没し夕焼け空が一面に黄色くなった情景である。
この時教えてもらった歌である。すでに60年近く前だが昨日のように覚えている。
教えてくれた人は天皇陛下の「歌会始」に招待された人で、只者ではない。私の学校の5年先輩。
大島蓼太にはもっと有名な句がある。
世の中は三日見ぬ間に桜かな
いろいろな人の句を知っているからどうだということではない。
いろんな句を知っているからえらいわけでもない。ただ知っているだけである。
折々に思い浮かんでくる。それを検索しておぼえて喜んでいる。
ひそかな楽しみ。
酒など生まれつき飲めないし、お金もないので、もっぱらことばの楽しみだけである。言葉は楽しく飽きない。もう60年もこんなことをやっている。
逢いたい人はもう彼岸に行っているということです。黄泉の国に行った人にはもう会うすべはありません。
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タケチャン (金曜日, 17 4月 2020 23:47)
訪問の足跡を残すにはコメントの他手段がないので御容赦ください。
テレビもテープレコーダーも、教育用として楽校に配備され、最初に触れたのが小学校低学年でした。子供向け週刊誌が発刊された頃です。
漫画は読むな、手塚治虫の漫画が悪書と言われた頃です。
職員室がタバコの煙で霞がかかっていました。
曾祖父と祖父が俳人でしたが、残された書物が殆ど無く、
父がたまたま詠んだ短歌が歌会始の佳作になったのが記憶に残る程度です。
途中で紆余曲折が無ければ、あべの言うことを信じて疑わない様な人間に
なっていたかも知れ無い気がします。それくらい何も考えていない人生でした。
私もバカの一人です。
残された人生で少しは勉強したいと思います。
a87427 (土曜日, 18 4月 2020 02:11)
タケちゃんこんばんは
私の思うところでは自分をバカと認識することはとても大事だと思っています。
私もバカです。
kakumomo3112さんは千葉の方ですが。どうも曾祖父が俳人だったということを聞いたことがあります。
明治の初めころ、まだ俳諧と言われていたころです。多分交流があったと思われます。調べてみてください。